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“仏に逢うたら仏を殺せ”地下沢中也『預言者ピッピ』(1)(2)について

“仏に逢うたら 仏を殺せ”-臨済禅師『臨済録』―

完璧な科学は、もはや宗教と見分けがつかない。
もちろん完全な科学などというものはない。ここで言う「完璧な」というのは、われら神ならぬ不完全な人間の目から見て、完璧な(ようにみえる)科学、という意味だ。この領域に入ると、「願うこと」と「予測すること」は区別できなくなる。予測の計算から発生が証明された現象を、われわれが、誰かが、そうあるように願ったからそうなったのではないか、と勘違いするようになるのだ。これは、なにも高度な科学に限ったことではない。ぼくらは、よくこの混同をしてしまう。たとえば、地震などの災害。大地震のように人為の及ばないほど大規模な災害では、当然人間やら何やらの意志など介入する余地はない。自然側の何らかの原因があって、ただ起こるだけだ。そしてその結果、不運な人は偶然死んでしまうだろう。そこに意味はない。だが、人はそこに意志を見てしまうことがある。つまり、地震で死んだ人間を前に、「なぜ?」と問うてしまうのだ。「なぜ?」とということは、そこに何らかの存在の自由意志が介在していると無意識のうちに感じている、ということである。原因が意志と混同されてしまうのだ。人はこのごくごく素朴なレベルでも現実を不正確に解釈してしまうなら、ましてや、高度な予測シミュレーションでは願いと予測の区別ができなくなる。そして、一体、誰が願っているのか、誰が意志しているのか、それもわからなくなっていく。

『預言者ピッピ』には、不完全な人間にとって、限りなく完璧に見える科学、すなわち、未来の出来事を寸分たがわず予測できる人工知性(ヒューマノイド型スパコン)が登場する。ヒューマノイド型人工知能のピッピは、地震予知のための確率計算機として人間に創られたロボットだ。ピッピにもともと意志はない。もとは世界の現象を数値的に予測し、計算するだけのロボットだ。この漫画では、人工知能ピッピが、交通事故により命を落とした人間の友人であるタミオの人格を、自身の中に対話相手として取り込み自我をもつ。そして、科学研究所などの思惑で、難病など地震の予測以外の「予知」をさせられるようになる。彼はタミオの母親の病気を予知し、難病の原因と治療法を計算し、果てにはマグニチュード8.5のロサンゼルス大地震をほぼ誤差なしでぴたりと予言する。世界は彼の予言を単なる確率計算ではない、未来の「預言」として受け取るようになっていく。まるで宗教のように。奇跡を期待するように。ピッピは未来の「予言者」から、キリスト教的な「預言者」へと化していくのだ。

未来の予告は、現実そのものを捻じ曲げることがある。いや、現実そのものを変えてしまう、とも言えるだろうか。客観的な世界の観測をするにも、観測するための「道具」がいる。望遠鏡などの道具は、星雲などの解明で天文学を飛躍的に進歩させたが、それは、観測者の存在する現実そのものの根源的な変化をともなっていた。そして、生物の「脳」もまた道具である。ダニエル・デネットなどが理論化したように、脳は生物が死なないための、現実をシミュレーションするための道具として発達してきた。脳の発達は、人間の生きる環境そのものへの認識を変化させ、さらには環境そのものに働きかけて変えてしまうことを可能にした。

ピッピは、人類にとって「道具」のはずだった、はじめの段階では。コンピュータの発明自体が、人間の脳内で行われる情報処理能力の外部化だったとするなら、ピッピは人類すべての脳の結晶であり、最高の道具であると言える。だが、人類の脳であるピッピは、もはや人間の現実を変えずにはいられない。ピッピの予言は、現実そのものを捻じ曲げていく。

世界中の数十億人が見守るなかで、ピッピはその場に居合わせたジャーナリストの真田タカオに対して、彼は「今日から99日後に自殺」し、「それがあなたの役目 あなたが生まれてきた理由」である、と“預言”する。また、8年後、人類は地球規模の大海嘯を伴う謎の「ゲルダ現象」により滅亡する運命にある、とも言う。そして、滅亡を阻止するためには「生命の定義を数値化す」る進化が必然であり、タカオはそのための被験者として犠牲になる運命にあるのだと予言する。

真田タカオは、未来を寸分たがわず計算するピッピの預言をハナから信じていなかったので、自分への自殺の預言も真に受けてはいない。タカオの行く末に興味を寄せる大衆やテレビ番組の演出で、タカオは自殺預言の当日に巨大なジャンプ台の上に立ち、ピッピの預言が誤りであることを身をもって証明しようとする。全く自殺する意志も理由もない自分が、飛び降りるわけなんかない、と言いながら。

しかし、自殺預言の日が近づくにつれて周りの人間の態度がおかしくなっていく。まるでタカオが死ぬことが確定した事実であるかのように、いや、皆、タカオの死を願うようにすらなっていく。不確定な未来が、確定した現在であるかのようになっていく。
預言日当日に台に上ろうとするタカオを「アレはダメよタカオ アレはダメ」と引き留めるのは、言葉を話す猿として世界的に有名になったエリザベスだ。彼女は死にかけのホームレスを見て傍らに寄り添い、自身のいる生物学研究所に病気や貧困にあえぐホームレスを住まわせるなどする、心優しき猿だ。エリザベスは世間の空気に殺されそうなタカオのそばに寄り添いつづける。台の上で、タカオの手を握る。もちろんタカオは台の上にのっても、自殺する気はさらさらない。

だが突然、タカオの前に“何か”が現れる。ルネ・マグリッドの『ピレネーの城』のような見てくれの物体が、タカオとエリザベスの前に浮かんでいる。タカオはそれを見て、台から飛び降りる。落下中、タカオは、自身のものではない何者かの手によって扼殺されながら(一見自殺しているように見える)、落下し、絶命する。
エリザベスはとりみだし、錯乱しながら言う。
「何かいる…駄目!!逃げなさい タカオ!悪がいるわ!(It's Evil!)」

タカオは“何”に殺されたのか。エリザベスの言う「悪」とは一体何なのだろう。
重要なのは、ピッピはタカオが扼殺された数万分の一秒の瞬間を予測できなかったということである。そしてエリザベスが言うようにそれは「人間の世界にはありえない あってはいけないモノ」だ。予言をすり抜ける、存在してはならないものとしての「悪」。このいささかカトリック的とでもいうような悪のあり方は今後この話の中でどうなっていくのか。まだわからない。また、ピッピ自体には悪意はない。彼は単に人類やタカオの未来を計算して予言しただけだ。しかし、それが成就してしまった。このことは「真理」に向き合う人間のどうしようもなさが示されているともいえる。「わたしの口の中に 悪がいる」「言葉で説明しようとすればするほど どうしてもなにかが違っていく やっぱりわたし言葉はあまり好きじゃないわ」というエリザベスの台詞は、そのことを如実に物語ってはいまいか。

人は現実を自分の都合のいいように解釈する生き物である。脳神経科学などでは、視覚と情動を繋ぐ脳神経の経路が切断されてしまうと、自分の母親を理性的には母親だと認識できても、情動のわかないことから「母親じゃない」と勝手に解釈してしまうことがあるらしい。また、左脳と右脳が切れてしまい、自分の行動の理由づけに関してそれぞれの側が勝手に解釈してしまう、などの例もあるんだと。最近は、行動経済学などでも、自分が物語化しやすい現実を解釈する人間の行動原理などが注目されている。つまり人は、自分が信じたいものを信じるのである。それが、理性的にみて妥当な解釈でなくても、人は、自身の「信じたい」という願いを、その思いの一貫性を、無意識にまた集合意識的に優先させてしまう。ましてやピッピのような世界最強のスパコンの演算である。そこに宗教性が帯びないわけがない。エリザベスはタカオの死について「悪がフザケて遊んでるような 悪が遊んでるみたいにタカオにまとわりつい」ていると言う。タミオのコピーはそれを受けて「たしかに悪ふざけなんだ こいつはまったくフザケた意思でピッピの予言にあと乗りしてきたくせして あたかも最初からここにいるのが決まっていたかのようなフリをしてる まるでピッピの予言を自分が当てさせてやったとでもいいたげだ」。“悪”のワルふざけ。もし、現実がそして真理が、僕たちのような不完全で弱い人間たちの合理化によって、いや、“願い”や“意志”によって、意味づけされるようなものなら、“悪”はまさに悪ふざけしながら僕たちの世界をおちょくることができるだろう。“運命”というものを楯にして。さも当然、そこにすでにあったかのように。おそらく、タカオを殺したのは、真実にすがり執着しようとする人間の弱さ、そして現実や真理というものそのものが孕んでいる隙である。

本書2巻の「兆し」の冒頭には、ピッピを開発した科学者が臨済宗の禅僧を訪れて人類滅亡の預言について問答を交わすシーンがある。科学者はピッピの予言を聞いて、人はもう絶望するほかないのか、と尋ねる。禅僧はそれに対し、自身が若いころによく仏のような怪しげなものにあったことを語りながら科学者に『臨済録』の言葉を投げかける。「仏に逢うたら仏を殺せ 祖に逢うたら祖を殺せ 羅漢に逢うたら羅漢を殺せ 父母に逢ったら父母を殺せ 悟ったと思ったその瞬間 その悟りは壊さねばならん」。「人は弱さゆえに真を求め 弱さゆえに真を見まがう」「もしあなたの目に ピッピが全能であり それが正しいとしか映らないなら それは仏に逢うて惑わされてるのに同じ 目に見えるものが必ずしもそのようであるとは限らんのです」

この物語では、ピッピは人間から見て限りなく全知であるがゆえに“全能”であるように見える。一見、ピッピこそが神であり、救世主であるかのように思えるかもしれない。話の中に出てくる人間も一部を除けば、ほぼそう感じていた。
だが、この話ではピッピは明らかにアンチ-キリストである。全知全能のように存在しているがゆえに、より超越的な“悪のワルふざけ”“嘘つき 詐欺師”にたぶらかされるのだ。かれもまた、世界に対して無能な者のひとりである。

ここで真にキリスト的なのは、エリザベスである。彼女=キリストは世界に対して完全に無能である。自分が何であるかすら知らない。全知でもない。彼女は世界の人間たちに軽んじられる。しかし、彼女は悪や嘘だけは見抜く、結果、真実を見抜く。彼女は、真実を見抜き、常に弱き者に寄り添うだけだ。そして、われら不完全な弱き人間にとって、エリザベス的であること以外何ができようか。

“仏に逢うたら 仏を殺せ”

仏の幻影を殺しうるのは、ただただエリザベス的である者だけである。



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転生の倫理 ―大島弓子『8月に生まれる子供』―

大島弓子は初期作品から一貫して、「この世界」に居場所を与えられないマイノリティな「外の世界」の住人を、この世界に軟着陸させるべく格闘してきた。猫や子供、夢見がちの少女、さえない男、そして老人。

『8月に生まれる子供』はそんな大島弓子の倫理が結実した最高到達点だと言える。
主人公の種山びわこは、18歳の女の子だが、ある病気で急速に老化が進む。腰が曲がり、目がかすみ、歯が抜け、物忘れが激しくなる。その老化の過程で、記憶や尊厳など様々なものが引きはがされていき、びわこを「外の世界」に連れていく。

この作品が他の大島作品と比べて異質なのは、〈老人になる〉という外の世界に向かっていく変化が、もともと「外の世界」の住人だった猫や夢見る少女とは逆のベクトルを向いていることである。猫やお姫様は「外の世界」からこの「世界」に向かっており立とうとする。そして猫やお姫様になりたい女の子は、現代でもごまんといるだろう。「この世」たる〈現実〉がそのような猫やお姫様を拒むような汚くて、つまらないものならば、「この世界」と交渉することはない。「外の世界」にとどまって猫やお姫様であることは、一種の夢でもあるといえる。

しかし、老人はそうはいかない。老人になることは、もといた「この世界」から「外の世界」へ押しやられる斥力としてある。きしむ身体、はぎ取られていく記憶、社会で居場所がなくなっていく孤独。しかも、ボケゆく老人はボケていくような「自分」を自身で確認することができない。ただ事後的に、自分が世界とずれてゆくことを、家族や医者や恋人の反応から推測するほかないのだ。つまり、猫やお姫さまが、かろうじて依拠できていた「自分」という足場すら揺らいでいるのだ。自分は、どこまでが自分なのか不明瞭になり、足場を失ったびわ子の世界は「年号も日付も曜日も関係なくなって ただ不快な空間があるだけ」になる。

出産を控えた姉が実家に訪ねたとき、びわ子の家族は姉の身体に配慮し、びわ子の老化現象は、演劇の役作りのための変装なのだ、と嘘をつく。びわ子はその瞬間、世界に自分がさも「存在しない」ような、居場所のない孤独に襲われ、姉や家族を拒絶する、「おまえなんかどっかいっちゃえ! どっかいっちゃえ!」と。びわ子は主観的にも、客観的にも、この世界に存在することができなくなってしまったのである。

自分がなくなったとき、人はどうなるだろう?内側からも、外側からも、「自分」がみえなくなったら?
おそらく、それでも無理に「自分」であろうとするあまり、他者を拒絶するだろう。じっと動かず、あるのかないのかさえ不明瞭な「自分」を守ろうと、殻をつくるだろう。びわ子の恋人である持草薫のかつての祖母のように、誰にも「ふりむかず」「ただ固く自分の身を守ろうと座っている」だけの存在になってしまうのではないか。びわ子はそんな世界の斥力に、ただただ、徘徊し、帰る家のないことを嘆き、孤独にたたずむ。

自分という足場をなくしたびわ子。暗い、暗い、こわくて、歩けないような暗がりの中を、ただ一人、持草薫の声だけが足元を照らす。かつて自分の祖母に悲しみの感情とともに向けた言葉とともに、びわ子の足元をか細い光で、照らす。

なにもいらない ただこっちをみてくれれば

ほどなくして、姉が出産するとの報告がびわ子の耳に入る。その言葉に、びわ子は反応する。

ウマレル?ボケた自分は別な自分の誕生かもしれない そうだ別な自分がこれから生まれるんだ


読書メモ ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』(山形浩生訳、NTT出版)

 今もらう1万円と、10年後もらう1万円の現時点でのありがたみは違う。
10年後に1万円くれるんなら、今5千円、いや、千円でもいいからくれよと言いたくなるだろう。これは、つまり、現時点での1万円の価値が未来に先送りにされればされるほど目減りする、ということを意味する。行動経済学では、こんなことが色々議論されることになるんだが、ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』では、この原理が「双曲割引曲線」という価値の効用関数によってなされていることをかなり広範な現象に触れながら一貫して説明し尽くす。日常的に起こる人間の癖や習慣、アル中などの中毒現象にとどまらず、痛みという現象や、果ては社会規範、制度、文明崩壊の可能性(アダムとイブの話まで触れられている)までこの双曲割引の理論で一貫した説明をしてしまう!この本はとても広い射程をもった本なのだ。

 エインズリー以前の従来の効用理論などでは、今もらう1万円の価値は一定時間ごとに一定割合ずつ、いわば指数関数的に割り引かれると思われていた。指数関数的な効用理論では、今もらう1万円と1年後もらう1万円に価値の差があるのと同様に、50年後もらう1万円と51年後もらう1万円の価値も違うことになる。時間に比例して一定割合ごとに、価値が割り引かれるからだ。けど、これって、僕たちの常識的な感覚と照らし合わせて、あんまり腑に落ちない。50年後と51年後の1万円の価値の差なんてほとんどないように感じるし、その価値の差と、今現在の目先のものの価値の感じ方は根本的に違うように思われる。

 エインズリーたちの実験によれば、その直観の通り、人間は指数関数的な割引はおこなっていないという。人は目先に来たものの価値を、そのものの客観的・合理的な価値より大きく感じてしまうのだ。目前のものの価値だけ極端に高くなって、一方で時間的に遠くのものの価値があまり変わらない効用関数のあり方を、極端にしなった効用曲線=双曲割引曲線というのだという。これは、マッチング則を提唱したハーンスタインの実験で基礎づけられたらしい。実験では、人間のみならず、ハトやサルなどの動物もまたこの双曲的な効用をもっているという。これは進化の過程で身に付いたものだ。

 目先の価値が大きく見えるということは、誘惑に負けやすいということだ。人や動物は、この誘惑されやすい己の性向に対抗すべく、報酬のモジュールシステムを作り、「意志」というものが生まれた(意志は動物も持っているのだ!)。意志もまた、人間の「報酬」によって形づくられた長期的な利益のあり方という意味では、誘惑をもたらす短期的な利益=誘惑と存在論的に同じだ。エインズリーは、この長期的利益=意志と、短期的利益=誘惑が互いに協力関係や出し抜きあい、騙し合いなどの関係を結びながら、さながら人間の限定戦争やバクテリアの協力関係のように、己が主導権を取らんと抗争しているという。

 さて、とはいえ、この「意志」というやつは、一般的にイメージされるような意図的・意識的なものだけというわけではない。むしろ、無意識に、本人が必ずしも意図しないかたちで形成される「意志」の方が多いかもしれない。たとえば、日常的に無意識にしてしまっている「習慣」なんてのも「意志」の一種だとエインズリーは論じる。これは、利益の序列が自分の身体レベルで確定されてきた結果だという。社会集団の構成員に序列ができるように、利益にも序列ができるのだ。朝、ラジオである番組がかかったらベッドから起きて、職場では雑誌を読まず、タバコは食事の後にするなどといった行動は、別にそうしなかったときの影響をいちいち計算し直した結果ではない。以前に起きた競合の結果をそのまま受け入れただけだ。では本人になぜそうしたか聞いてみても、あれこれ「そうすべきだから」とか「なんか気持ち悪いから」とか、そんな程度の答えしか得られないだろう。しかし、このような利益の序列は、さながらイギリスのコモンローのごとく、誘惑と意志の異時点間の交渉の結果として形成されてきた「個人的ルール」なのである。そのリズムを壊すと「なんか気持ち悪い」のは、そのようなコモンローを無視することに相当するからなのだ。このように、意志=個人的ルールなるものは、当人のコントロール外でも起こる。いや、むしろ、本人が無意識的に、大雑把に積み重ねてきた行動が、自分の唯一無二の強固なルールになっていることのほうが多いかもしれない。僕が日曜日に特定の喫茶店に昼の三時きっかりに行かないと気持ち悪いのは、いつの間にか形成されてきたルールなのだろう。

 そして、誘惑ってやつもかなり狡猾だ。誘惑は意志と真っ向勝負するだけじゃなくて、ときには意志=ルールを逆手にとって、その裏をかく。ケーキやたばこを我慢するという意志=ルールの枠組みそのものを逆手にとって「今日は特別な日だし!」「これは例外!」などといって勝利を収めたりする。

 意志は、このような狡猾な誘惑に対抗するためには、上記のようなルール違反があいまいになるような規制をできなくなる。アル中が酒をやめようと思ったら、「1日3杯まではいいが4杯目は禁止」というようなあいまいなものではなく「一口も飲んではダメ」という厳格でわかりやすい基準をルールにして、言い逃れを防がねばなるまい。だが、このように厳格かつ明確なルールに拘りすぎると、今度はルール自体が硬直したものになりがちになる。

 それゆえ、実はルール=意志が融通がきかずに、逆に長期的利益を損なう場面がでてくる。たとえば、死刑直前の死刑囚が「禁煙してるからタバコをやめておく」という滑稽なことも起こりうる。

 また、意志は快楽そのものをもたらす欲求をつぶしてしまうこともある。あまりにも目的合理的な活動はその活動の楽しみをつぶしてしまう。例えば、合理的で効率的な旅や読書や学問やセックスは、かえってその快楽をそいでしまうのではないだろうか?つまり、意志は、ルールによって最大化されるべき当の目的であった長期的な快楽そのものを合理性によって殺してしまうというジレンマを抱えているのだ!

 このようにかなり精密な双曲割引のしくみを説明しながら、本の最後でエインズリーはカッとんだ話で論を締めくくる。実は、人類が発達させてきた性規範や道徳、マナー、芸術、学問、そして各種社会制度などの一部は、人が欲求のあいがたみをつぶさずに維持するべく、迂回的に快楽をもたらすように設計されているのだと言いだす!そしてそこから導かれるのは、合理的な制度というものが、いずれ文明崩壊の原因になるのではないかということであり、また、かつて、滅んできた文明はそのような合理性が最大化してしまったゆえに、快楽も幸福も真理さえも雲散霧消したゆえにそうなってしまったのではないか、と!

これはジャレド・ダイアモンド顔負けの文明論である。むしろ、双曲割引曲線による誘惑や迷い、後悔、苦悩こそが、快楽やその結果である「幸福」をもたらすのだ。「幸福」は迂回的に、廻り廻ってしかやってこない!直接に幸福に向かおうとすること、すなわち、幸福を哲学的に定義しようとする試みは、その本質において、幸福に到達できないことが運命づけられているのである!目的が手段となり、手段が目的に転ずる曼荼羅的構造を有する偶然性の思想=仏教や、ペテロが3回イエスを否認したのちに自らの罪=真理に迂回的に直面するキリスト教神学、そして幸福は遅れてやってくる『女生徒』で書きつけた太宰治らの思想が、この双曲割引理論を媒介にして、この僕にも迂回的に理解されてきたことが、この理論の得体の知れなさを如実に物語っていると言えよう。

双曲割引的な誘惑は人間に迷いや後悔をもたらす迷惑な存在である一方で、そうであるがゆえに人間は意志をもつようになっている。もし人間が誘惑を完全に克服したらどうなるだろう?人が指数関数的な合理性を完全にもつようになったら?

誘惑が無くなれば、意志もまた不要になり、人間は人間であることをやめるだろう。この本はそんな人間の生物としてのジレンマや限界、そして悲しみについて書かれているのだ。


 


 

山岸凉子から大島弓子へ②―存在の肯定―

●〈存在〉に対する責任
 就職活動なんてしていると、履歴書の学歴や職歴なんかをみられて、そこに少しでも空白があると、その理由を事細かに聞かれたりする。ときには、詰問するような口調で。会社も、今まで何社受けたのか、などと聞かれたり、その間何をしていたのか、などと聞かれる。そこでは、何もしていない時期というのは許されない。それは、あってはならないことだとされる。
 ぼくたちが生きるこの現代社会というものは、一応「責任」と引き換えに「自由」というのをあてがわれるという体裁をもっている。責任をとる、ということは、そこに誰かの「自由」なるものが存在していた、と見なされるわけだ。逆に、自由に振る舞うことは、責任をとらされることにもつながる。このような世界では、何もしないことも、責任に問われるのだ。「お前はなぜ何もしなかったのか?」なんて具合に。
 私たちは、ただ、ぼけっと存在していることを、基本的に許されていないのかもしれない。ただ生きていること、すなわち、「生存している」だけでも、勝手に各方面から「責任」をくっつけられてしまうのである。私たちは、身に覚えのない責任までとらされているのだ。これは強制された自由というグロテスクな代物だ。
 例えば、社会が要請する「立派な人間」にあてはまらない人間は在ってはならない存在だとされるし、老人や障害を持った者も、ただそれだけでは、存在を許されないことがある。ただ、ありのままの他者を存在することは許されない社会、なのである。
 これは、近代に始まったことじゃあない。例えば、中世には魔女裁判なんてものもあって、それは、いわば、「存在」自体が世界にあってはならないもの、許されない者、だとされていたのである。現代は、その責任を問われる「存在」のカテゴリーが変わったにすぎない。
 しかし、ここで問われているような、何もしないことの責任や、ただ生きていることの責任というのは、自分で積極的に掴みとったものじゃない。いつの間にか、誰かによって、勝手に、付与された責任である。もし、現実というものが、確固たる自分の能動的な力によって掴みとられるようなものであるなら、このような虚ろな責任を付与する社会によっては、ぼくたちは自由にはなれない。こんなことをおそらく考えていたと思われるのは、『ドラえもん』の作者である藤子・不二夫である。
 ある種の創作的行為は〈現実〉の重みの前に、どういう態度をとるか、どう〈現実〉を突き破るかを問題にしていたと思う。手塚治虫は〈現実〉のリアリティを「死」の絶対性のなかに感じながら、それを別様の〈理想=夢〉へ昇華することを徹底していた。弟子の藤子・F・不二雄は手塚が残した〈現実〉の変えがたさを、理想=夢に転化することなく、生きることの〈諦念〉、残酷さとしてひたすら脱臼していった。藤子・不二雄は、手塚が拘っていた〈現実〉と〈理想=夢〉の回路を、不可能性の循環の中に閉塞させていたったといえる。
大島弓子はそのような閉塞した地平を、逆説的に打破しようとする。すべての〈現実〉は変えがたくしかも虚ろな虚構性しかもたないとするなら、そのような虚ろな〈現実〉こそが〈夢〉なのではないか、と。その根底に流れるのは、生きることに対する徹底的な〈諦念〉である。




山岸凉子から大島弓子へ①―橋本治の〈欲望〉を下敷きに―

●欲望の解放者・橋本治
橋本治は、「欲望」の解放者だ。
人は欲望に準ずることによって、自己を確立し、生への意志を入手し、生き延びる知恵をひり出せる。現代社会に生きる我々は、この根本的な欲望の肯定者になりきれていないのではないだろうか。我々に必要なのは、この〈欲望〉の認識と、肯定である。しかし、「欲望」と一口に言っても、当人が必ずしも己が欲望を「これが俺の欲望だ!」とわかっているわけではないよね、というよりも、「欲望」なんてもしかしたら、僕たちの「中」にあらかじめ確固としてあるようなものではないんじゃないか、このように、橋本治は(暗に)言う。これは意外に気づかれていない。例えば、欲望というものには、読書をしたいという欲望、いい音楽を聴きたいという欲望、うまいものを食べたいという欲望などなどがあるわけだが、これらの欲望は、必ずしも、個人の内側にあらかじめ所与としてしっかりと認識されていることは、稀だったりする。本を読みたいという欲望は、ある程度、本を読むという行為の反復の中で、本の善し悪しを自分で判断できるようになるにつれて、確固として生まれてくる。本を味わう快楽は、その行為の反復のなかで、それを味わえるだけの〈個〉が己のなかに成立しなければ、発生してこない。音楽にしても、美術絵画にしても、知識も価値判断もできないまっさらな状態で、うんうん味わうことは、おそらく、不可能だろう。よく「何にも縛られず、“自由”に感じ、考えているんだ」なんて言う人がいるけど、そういう人が独創的なこと言ったり書いたりできたことって、たぶん、稀ではないか。そういうのは型を知らないという意味で、「型なし」にならざるをえないんじゃないか。〈自由〉ってのは、思考の「型」がない、ということではない。そうではなくて、むしろ、「型」の反復のなかで、偏狭=狭量な自分を一旦ぶっ壊して、思考の模倣と反復のなかで、読書なり芸術なりを味わえるだけの「自分」を立ち上げることなんじゃないか。これが、「型なし」と区別される意味での「型破り」だ。型破りには、型を破るだけの〈自分=個〉があるし、そういう意味で〈自由〉だ。「型なし」は、その作品を“自由”に味わうことはできない。味わう〈個〉がいないのだから。

「型やぶり」は逆説的に見えるけど、型の反復=型の模倣を徹底することで可能になることが多い。歴史に名前の残っている偉人や芸術家や哲学者なんかは、先人の遺産の、徹底的な模倣者・解釈者である場合がほとんどだ。これは啓典宗教などにも言えることで、例えば、宗教改革者のルターやカルヴァンなどは、“聖書”という、世界観の型、思考の型を、徹底的に、自分で読み込んで解釈することで、神へと接続し、〈自由〉たりえた。その結果、従来のキリスト教をはみ出るプロテスタンティズム、カルヴィニズムなんてものまで生まれたのである。従来の型の読み込みと解釈が、従来のそれをはみ出る「個性」を生みだした。

だから、実は何かを味わうときに、才能があるとかないとかって言うのは、結局、型を反復して練習したり、勉強したりできるかどうかの違いでしかないのかもしれないと思うのだけど、とはいえ、努力できるのも才能であるからして、全くみんなが出発点としてまっさらであるかは当然疑わしい。その疑わしさは、進化生物学や進化心理学などの方面で提起されていて、例えば、進化生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」論やスティーブン・ピンカーの遺伝論なんぞは、人間は、初期条件はまっさらなどではなく、「個体」は遺伝子の乗り物なのだ、なんて唱えたりする。

それはさておいて、ここで確認されたいのは、「自分の欲望」というものを認識したり、それを立ちあげるのは、意外に努力が必要だったりすることだ。自分は何を欲望しているのかわからない、なんてことはざらで、そのために、フロイトとかの精神分析学なんかは現れたんだし、いまだに彼らの重要性は衰えていないことからも、そのことはよくわかる。

しかし〈欲望〉というのは、日々生きるための糧というか、エネルギーである。生きる意志は、そのような内から湧き上がるガソリンをうまく使うことで、つかむことができるから、人間にとってとても重要なものだと言える。しかし、どうも、現代社会に生きる我々はこのエネルギー源をうまく使って「生」を営んでいく、ということが苦手だ。〈欲望〉は現代を生きる人にとっては顧みられない境遇に立たされている…。だけど、この世知辛い世の中で、うまく生きていけないような人たちもこの自分の内から湧き上がる〈欲望〉に準拠してうまく〈自分〉を形づくれれば、もっと強く生きていけるかもしれない…。そこでフロイトのいないこの日本で人々の〈欲望〉の解放者として現れたのが、橋本治なのである。橋本は『花咲く』第Ⅰ章の倉多江美論で、次のように語る。


早い話が、一切の束縛を断ち切って自由になろうとする人間にとっては、既成の哲学も束縛になってしまうということですよ。だって既成の哲学って、みんな怒鳴るんだもん。“ぼく”がどうして既成の哲学の所へ「すみません」て訪ねていくのかっていえば、“ぼく以外のものになりたくないぼく”がどうしたらその“ぼく”になれるのか、それをちょっと教えてもらいたいからですよね(『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(前篇)p52―53)




橋本治が、この本や、それ以降の著作で試みていることは、この一節に凝縮されているように思える。ぼくたちは、別に何か高尚なものになりたいとか、小難しい哲学の本なんか読んで、別の何かになりたんじゃないんだよね、そうじゃなくて、“ぼく”っていうのは基本的に“ぼく”以外のものではないわけで、けど“ぼく”ってなんなんだって言われるとよくわからなくて、それだからこそ、既成の哲学に“ぼく”ってどうやったら見つかりますかねえって聞いてみるんだ、と。“ぼく”が“ぼく”になるというのは、おそらく、自己の〈欲望〉を発見し、そのような欲望を有する〈自分=個〉を再発見する、ということである。これは、簡単なようでとても難しい。

 橋本治はこの個人の〈欲望〉の肯定を、ある時期まで、一貫して主張していた。彼はこの思想を、いろんなレベルで論じる。あるときは、「編み物」という実践のなかで(『男の編み物』)、あるときは人生相談という日常の生のレベルにおいて(『青空人生相談所』)、そして『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』では少女漫画、という次元において、である。『花咲く』の少女漫画論は、単なる少女漫画論ではない(たぶん)。あの本は、少女漫画で描かれている「世界」やそこで問題になっているものを、私たちの日常の「生」にダイレクトに捻じり合わせ、読者たる「私たち」の欲望を別次元に昇華させてしまうような“啓蒙書”である。


例えば、倉多江美論では、橋本は、倉多がデビュー作の『雨の日は魔法』のなかで、いわゆる「カワイイカワイイ」“王道”の少女漫画を書こうとして挫折したことを指摘して、倉多の描く主人公が、リアリズムにそって確立していく過程を論じている。倉多は、お花に囲まれた、汚れを知らない無垢なカワイイ女の子たる“花咲く乙女たち”を書くことができなかった。それは倉多が世界を正確に認識したいという欲望を持っていたからだ、と、橋本は言う。倉多は現実の少女というものを、“花咲く乙女”ではなく、火山灰裾野というバイオレンスな超絶ドブス少女に求めたのは、彼女の中の〈個〉というものが芽生えたことによる。その表現によって、倉多の世界は変わる。

倉多江美の世界は一転しました。一転して、確固として樹ち立てられたのです。確固とした世界観―それは一言で言えば「どうでもいい!」という恐ろしい決断だったのです(『花咲く』前篇p22)



倉多の少女漫画は、フロイト的な言い回しをするならば、〈個〉としての〈自我〉を確立する過程として読むことができる。

このバイオレンスになるということを専門的には「自我の目覚め(!)」と言いまして、そしてこういうことが平気で書けるようになるものの見方をこれ即ち、全信全疑というのでありますよ。だからね、このことが如何に生きていく上に必要なことかわかるでしょう?世の中すべて「どうでもいい」ではいけないのかもしれないけど、でも少なくともその方が生きてておもしろい



橋本治は、少女漫画を論じるという形式をとりながら、我々の人間として在り方、自我の在り方みたいのものの本質を言い当てているように思える。倉多の発見した〈個=自我〉というものは、確かに、従来の少女漫画の主人公のように可愛くて、お花畑にいて、キラキラしているわけではない。しかし、そこには倉多がリアリズムという視線によって獲得した新たな〈個〉というものが、芽生えているのだ。それを少女漫画の世界に降り立たせた倉多を論じることを通じて、そのような〈個〉の欲望を、純粋に肯定しているのだ。

しかしながら、この〈個〉というものの確立をさらに鋭く論じたのは、『花咲く』第Ⅳ章の山岸凉子論である。そして、山岸論においては、明らかに〈愛〉の条件として、自立した〈個〉が求められている。


●山岸凉子-〈愛〉の条件としての〈自立〉―
橋本治の山岸凉子論においては、人間が〈個〉であること、そしてそうありたいと思う人々の欲望が肯定され、分析されている。『アラベスク』第1部では、ヒロインたるノンナ・ペトロワが、自身の〈個〉を確立し、自由になっていく過程が、描かれている。ノンナがバレエの型を我が物とし、“ノンナ・ペトロワ”なる独自な存在として屹立していく過程は、〈個〉が〈個〉であることとはいかなるものかを教えてくれる。そして、個が自立し、自由になることは、〈他者〉を愛するための必要条件である。ノンナが想いを寄せるユーリ・ミノロフは、未だ〈個〉たりえていないノンナを拒絶する。なぜ彼は拒絶したのか。〈個〉たりえていないノンナが、個として既に確立しているユーリと結ばれてしまったら、それは、支配の関係に堕してしまうからだ。

自立した人間にとって、愛することができるのは、相手も同じく自立を果たした人間のみである。自立した人間にとって、いまだ自立を達成していない人間に“愛”という形で手を差し延べるのは、百害あって一利ない。それは、その影響力の強さゆえに、愛ではなくして、往々にして支配に成り下がるからである。

自立を果たした人間というのはその自立性故に―ひとりの人間が自立するということは他の支配から脱却するということであり、支配からの脱却ということは、支配される状態から脱するのではなく、"支配”という概念から自由であることでなければならない―他人を支配することができない。だから彼ユーリ・ミノロフは、自立に至らない弱さから自ら支配されることを望む人間ノンナ・ペトロワを拒まなければならないのだ。(橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』p187―188)

  

これは日常的によくあることではないか。〈愛〉というのは、〈個〉が確立する以前の者に向けられたとき、暴力に転化することがある。これは純粋な善意をもってしても避けがたいことだ。子供が好きであるがゆえに、子供を甘やかしてしまうことは、子供の〈個〉の形成を妨げ、親への依存を強めることになるだろう。また、恋人のことが好きすぎるあまり、相手の〈個〉を破壊するというもよくある。相手がいつ何をやっていて、どんなことを考えていたのかを逐一全部自分が知らなければ、気が済まない、相手のことをすべて自分が管理したい、相手を自分のもとに縛り付けたい、という欲望は、相手の〈個〉を〈個〉として取り扱わないということ、〈他者〉として見なさないということであるだろう。そして、好きすぎるがゆえに、相手を殺したい、食べてしまいたい、などの欲望がもしあったとしたら(私は知らないが)、それは〈愛〉の究極的な形態であるのかもしれない。それは愛する人を亡き者にすることで“同化”したいという究極の愛し方なのだから。

これは山岸凉子『日出処の天子』の表現を借りるなら、〈自己愛〉の延長線上にある〈愛〉のかたちである。とはいえ、〈愛〉にはもう一つの道がある。それは、〈個〉が、“全く自己と異なる存在としての”他の〈個〉を愛すること、つまり、〈他者〉を愛することだ。しかし、これは『日出処』が示したように、極めて困難な道である。
もしこの道が成功したら、それは橋本治のいう深い〈欲望〉の肯定につながることになるのだが…



この続きは、また書きます。

















プロフィール

コタロー

Author:コタロー
こんにちは。
大島弓子さん、山岸凉子さんが好きな20代男性です。
昔は社会倫理学を専攻。
最近は、進化生物学・進化心理学など勉強しています。
日々思いついたことを書いていきますので、お暇でしたら読んでくださいね。

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