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山岸凉子から大島弓子へ①―橋本治の〈欲望〉を下敷きに―

●欲望の解放者・橋本治
橋本治は、「欲望」の解放者だ。
人は欲望に準ずることによって、自己を確立し、生への意志を入手し、生き延びる知恵をひり出せる。現代社会に生きる我々は、この根本的な欲望の肯定者になりきれていないのではないだろうか。我々に必要なのは、この〈欲望〉の認識と、肯定である。しかし、「欲望」と一口に言っても、当人が必ずしも己が欲望を「これが俺の欲望だ!」とわかっているわけではないよね、というよりも、「欲望」なんてもしかしたら、僕たちの「中」にあらかじめ確固としてあるようなものではないんじゃないか、このように、橋本治は(暗に)言う。これは意外に気づかれていない。例えば、欲望というものには、読書をしたいという欲望、いい音楽を聴きたいという欲望、うまいものを食べたいという欲望などなどがあるわけだが、これらの欲望は、必ずしも、個人の内側にあらかじめ所与としてしっかりと認識されていることは、稀だったりする。本を読みたいという欲望は、ある程度、本を読むという行為の反復の中で、本の善し悪しを自分で判断できるようになるにつれて、確固として生まれてくる。本を味わう快楽は、その行為の反復のなかで、それを味わえるだけの〈個〉が己のなかに成立しなければ、発生してこない。音楽にしても、美術絵画にしても、知識も価値判断もできないまっさらな状態で、うんうん味わうことは、おそらく、不可能だろう。よく「何にも縛られず、“自由”に感じ、考えているんだ」なんて言う人がいるけど、そういう人が独創的なこと言ったり書いたりできたことって、たぶん、稀ではないか。そういうのは型を知らないという意味で、「型なし」にならざるをえないんじゃないか。〈自由〉ってのは、思考の「型」がない、ということではない。そうではなくて、むしろ、「型」の反復のなかで、偏狭=狭量な自分を一旦ぶっ壊して、思考の模倣と反復のなかで、読書なり芸術なりを味わえるだけの「自分」を立ち上げることなんじゃないか。これが、「型なし」と区別される意味での「型破り」だ。型破りには、型を破るだけの〈自分=個〉があるし、そういう意味で〈自由〉だ。「型なし」は、その作品を“自由”に味わうことはできない。味わう〈個〉がいないのだから。

「型やぶり」は逆説的に見えるけど、型の反復=型の模倣を徹底することで可能になることが多い。歴史に名前の残っている偉人や芸術家や哲学者なんかは、先人の遺産の、徹底的な模倣者・解釈者である場合がほとんどだ。これは啓典宗教などにも言えることで、例えば、宗教改革者のルターやカルヴァンなどは、“聖書”という、世界観の型、思考の型を、徹底的に、自分で読み込んで解釈することで、神へと接続し、〈自由〉たりえた。その結果、従来のキリスト教をはみ出るプロテスタンティズム、カルヴィニズムなんてものまで生まれたのである。従来の型の読み込みと解釈が、従来のそれをはみ出る「個性」を生みだした。

だから、実は何かを味わうときに、才能があるとかないとかって言うのは、結局、型を反復して練習したり、勉強したりできるかどうかの違いでしかないのかもしれないと思うのだけど、とはいえ、努力できるのも才能であるからして、全くみんなが出発点としてまっさらであるかは当然疑わしい。その疑わしさは、進化生物学や進化心理学などの方面で提起されていて、例えば、進化生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」論やスティーブン・ピンカーの遺伝論なんぞは、人間は、初期条件はまっさらなどではなく、「個体」は遺伝子の乗り物なのだ、なんて唱えたりする。

それはさておいて、ここで確認されたいのは、「自分の欲望」というものを認識したり、それを立ちあげるのは、意外に努力が必要だったりすることだ。自分は何を欲望しているのかわからない、なんてことはざらで、そのために、フロイトとかの精神分析学なんかは現れたんだし、いまだに彼らの重要性は衰えていないことからも、そのことはよくわかる。

しかし〈欲望〉というのは、日々生きるための糧というか、エネルギーである。生きる意志は、そのような内から湧き上がるガソリンをうまく使うことで、つかむことができるから、人間にとってとても重要なものだと言える。しかし、どうも、現代社会に生きる我々はこのエネルギー源をうまく使って「生」を営んでいく、ということが苦手だ。〈欲望〉は現代を生きる人にとっては顧みられない境遇に立たされている…。だけど、この世知辛い世の中で、うまく生きていけないような人たちもこの自分の内から湧き上がる〈欲望〉に準拠してうまく〈自分〉を形づくれれば、もっと強く生きていけるかもしれない…。そこでフロイトのいないこの日本で人々の〈欲望〉の解放者として現れたのが、橋本治なのである。橋本は『花咲く』第Ⅰ章の倉多江美論で、次のように語る。


早い話が、一切の束縛を断ち切って自由になろうとする人間にとっては、既成の哲学も束縛になってしまうということですよ。だって既成の哲学って、みんな怒鳴るんだもん。“ぼく”がどうして既成の哲学の所へ「すみません」て訪ねていくのかっていえば、“ぼく以外のものになりたくないぼく”がどうしたらその“ぼく”になれるのか、それをちょっと教えてもらいたいからですよね(『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(前篇)p52―53)




橋本治が、この本や、それ以降の著作で試みていることは、この一節に凝縮されているように思える。ぼくたちは、別に何か高尚なものになりたいとか、小難しい哲学の本なんか読んで、別の何かになりたんじゃないんだよね、そうじゃなくて、“ぼく”っていうのは基本的に“ぼく”以外のものではないわけで、けど“ぼく”ってなんなんだって言われるとよくわからなくて、それだからこそ、既成の哲学に“ぼく”ってどうやったら見つかりますかねえって聞いてみるんだ、と。“ぼく”が“ぼく”になるというのは、おそらく、自己の〈欲望〉を発見し、そのような欲望を有する〈自分=個〉を再発見する、ということである。これは、簡単なようでとても難しい。

 橋本治はこの個人の〈欲望〉の肯定を、ある時期まで、一貫して主張していた。彼はこの思想を、いろんなレベルで論じる。あるときは、「編み物」という実践のなかで(『男の編み物』)、あるときは人生相談という日常の生のレベルにおいて(『青空人生相談所』)、そして『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』では少女漫画、という次元において、である。『花咲く』の少女漫画論は、単なる少女漫画論ではない(たぶん)。あの本は、少女漫画で描かれている「世界」やそこで問題になっているものを、私たちの日常の「生」にダイレクトに捻じり合わせ、読者たる「私たち」の欲望を別次元に昇華させてしまうような“啓蒙書”である。


例えば、倉多江美論では、橋本は、倉多がデビュー作の『雨の日は魔法』のなかで、いわゆる「カワイイカワイイ」“王道”の少女漫画を書こうとして挫折したことを指摘して、倉多の描く主人公が、リアリズムにそって確立していく過程を論じている。倉多は、お花に囲まれた、汚れを知らない無垢なカワイイ女の子たる“花咲く乙女たち”を書くことができなかった。それは倉多が世界を正確に認識したいという欲望を持っていたからだ、と、橋本は言う。倉多は現実の少女というものを、“花咲く乙女”ではなく、火山灰裾野というバイオレンスな超絶ドブス少女に求めたのは、彼女の中の〈個〉というものが芽生えたことによる。その表現によって、倉多の世界は変わる。

倉多江美の世界は一転しました。一転して、確固として樹ち立てられたのです。確固とした世界観―それは一言で言えば「どうでもいい!」という恐ろしい決断だったのです(『花咲く』前篇p22)



倉多の少女漫画は、フロイト的な言い回しをするならば、〈個〉としての〈自我〉を確立する過程として読むことができる。

このバイオレンスになるということを専門的には「自我の目覚め(!)」と言いまして、そしてこういうことが平気で書けるようになるものの見方をこれ即ち、全信全疑というのでありますよ。だからね、このことが如何に生きていく上に必要なことかわかるでしょう?世の中すべて「どうでもいい」ではいけないのかもしれないけど、でも少なくともその方が生きてておもしろい



橋本治は、少女漫画を論じるという形式をとりながら、我々の人間として在り方、自我の在り方みたいのものの本質を言い当てているように思える。倉多の発見した〈個=自我〉というものは、確かに、従来の少女漫画の主人公のように可愛くて、お花畑にいて、キラキラしているわけではない。しかし、そこには倉多がリアリズムという視線によって獲得した新たな〈個〉というものが、芽生えているのだ。それを少女漫画の世界に降り立たせた倉多を論じることを通じて、そのような〈個〉の欲望を、純粋に肯定しているのだ。

しかしながら、この〈個〉というものの確立をさらに鋭く論じたのは、『花咲く』第Ⅳ章の山岸凉子論である。そして、山岸論においては、明らかに〈愛〉の条件として、自立した〈個〉が求められている。


●山岸凉子-〈愛〉の条件としての〈自立〉―
橋本治の山岸凉子論においては、人間が〈個〉であること、そしてそうありたいと思う人々の欲望が肯定され、分析されている。『アラベスク』第1部では、ヒロインたるノンナ・ペトロワが、自身の〈個〉を確立し、自由になっていく過程が、描かれている。ノンナがバレエの型を我が物とし、“ノンナ・ペトロワ”なる独自な存在として屹立していく過程は、〈個〉が〈個〉であることとはいかなるものかを教えてくれる。そして、個が自立し、自由になることは、〈他者〉を愛するための必要条件である。ノンナが想いを寄せるユーリ・ミノロフは、未だ〈個〉たりえていないノンナを拒絶する。なぜ彼は拒絶したのか。〈個〉たりえていないノンナが、個として既に確立しているユーリと結ばれてしまったら、それは、支配の関係に堕してしまうからだ。

自立した人間にとって、愛することができるのは、相手も同じく自立を果たした人間のみである。自立した人間にとって、いまだ自立を達成していない人間に“愛”という形で手を差し延べるのは、百害あって一利ない。それは、その影響力の強さゆえに、愛ではなくして、往々にして支配に成り下がるからである。

自立を果たした人間というのはその自立性故に―ひとりの人間が自立するということは他の支配から脱却するということであり、支配からの脱却ということは、支配される状態から脱するのではなく、"支配”という概念から自由であることでなければならない―他人を支配することができない。だから彼ユーリ・ミノロフは、自立に至らない弱さから自ら支配されることを望む人間ノンナ・ペトロワを拒まなければならないのだ。(橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』p187―188)

  

これは日常的によくあることではないか。〈愛〉というのは、〈個〉が確立する以前の者に向けられたとき、暴力に転化することがある。これは純粋な善意をもってしても避けがたいことだ。子供が好きであるがゆえに、子供を甘やかしてしまうことは、子供の〈個〉の形成を妨げ、親への依存を強めることになるだろう。また、恋人のことが好きすぎるあまり、相手の〈個〉を破壊するというもよくある。相手がいつ何をやっていて、どんなことを考えていたのかを逐一全部自分が知らなければ、気が済まない、相手のことをすべて自分が管理したい、相手を自分のもとに縛り付けたい、という欲望は、相手の〈個〉を〈個〉として取り扱わないということ、〈他者〉として見なさないということであるだろう。そして、好きすぎるがゆえに、相手を殺したい、食べてしまいたい、などの欲望がもしあったとしたら(私は知らないが)、それは〈愛〉の究極的な形態であるのかもしれない。それは愛する人を亡き者にすることで“同化”したいという究極の愛し方なのだから。

これは山岸凉子『日出処の天子』の表現を借りるなら、〈自己愛〉の延長線上にある〈愛〉のかたちである。とはいえ、〈愛〉にはもう一つの道がある。それは、〈個〉が、“全く自己と異なる存在としての”他の〈個〉を愛すること、つまり、〈他者〉を愛することだ。しかし、これは『日出処』が示したように、極めて困難な道である。
もしこの道が成功したら、それは橋本治のいう深い〈欲望〉の肯定につながることになるのだが…



この続きは、また書きます。

















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プロフィール

コタロー

Author:コタロー
こんにちは。
大島弓子さん、山岸凉子さんが好きな20代男性です。
昔は社会倫理学を専攻。
最近は、進化生物学・進化心理学など勉強しています。
日々思いついたことを書いていきますので、お暇でしたら読んでくださいね。

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