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山岸凉子から大島弓子へ②―存在の肯定―

●〈存在〉に対する責任
 就職活動なんてしていると、履歴書の学歴や職歴なんかをみられて、そこに少しでも空白があると、その理由を事細かに聞かれたりする。ときには、詰問するような口調で。会社も、今まで何社受けたのか、などと聞かれたり、その間何をしていたのか、などと聞かれる。そこでは、何もしていない時期というのは許されない。それは、あってはならないことだとされる。
 ぼくたちが生きるこの現代社会というものは、一応「責任」と引き換えに「自由」というのをあてがわれるという体裁をもっている。責任をとる、ということは、そこに誰かの「自由」なるものが存在していた、と見なされるわけだ。逆に、自由に振る舞うことは、責任をとらされることにもつながる。このような世界では、何もしないことも、責任に問われるのだ。「お前はなぜ何もしなかったのか?」なんて具合に。
 私たちは、ただ、ぼけっと存在していることを、基本的に許されていないのかもしれない。ただ生きていること、すなわち、「生存している」だけでも、勝手に各方面から「責任」をくっつけられてしまうのである。私たちは、身に覚えのない責任までとらされているのだ。これは強制された自由というグロテスクな代物だ。
 例えば、社会が要請する「立派な人間」にあてはまらない人間は在ってはならない存在だとされるし、老人や障害を持った者も、ただそれだけでは、存在を許されないことがある。ただ、ありのままの他者を存在することは許されない社会、なのである。
 これは、近代に始まったことじゃあない。例えば、中世には魔女裁判なんてものもあって、それは、いわば、「存在」自体が世界にあってはならないもの、許されない者、だとされていたのである。現代は、その責任を問われる「存在」のカテゴリーが変わったにすぎない。
 しかし、ここで問われているような、何もしないことの責任や、ただ生きていることの責任というのは、自分で積極的に掴みとったものじゃない。いつの間にか、誰かによって、勝手に、付与された責任である。もし、現実というものが、確固たる自分の能動的な力によって掴みとられるようなものであるなら、このような虚ろな責任を付与する社会によっては、ぼくたちは自由にはなれない。こんなことをおそらく考えていたと思われるのは、『ドラえもん』の作者である藤子・不二夫である。
 ある種の創作的行為は〈現実〉の重みの前に、どういう態度をとるか、どう〈現実〉を突き破るかを問題にしていたと思う。手塚治虫は〈現実〉のリアリティを「死」の絶対性のなかに感じながら、それを別様の〈理想=夢〉へ昇華することを徹底していた。弟子の藤子・F・不二雄は手塚が残した〈現実〉の変えがたさを、理想=夢に転化することなく、生きることの〈諦念〉、残酷さとしてひたすら脱臼していった。藤子・不二雄は、手塚が拘っていた〈現実〉と〈理想=夢〉の回路を、不可能性の循環の中に閉塞させていたったといえる。
大島弓子はそのような閉塞した地平を、逆説的に打破しようとする。すべての〈現実〉は変えがたくしかも虚ろな虚構性しかもたないとするなら、そのような虚ろな〈現実〉こそが〈夢〉なのではないか、と。その根底に流れるのは、生きることに対する徹底的な〈諦念〉である。




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プロフィール

コタロー

Author:コタロー
こんにちは。
大島弓子さん、山岸凉子さんが好きな20代男性です。
昔は社会倫理学を専攻。
最近は、進化生物学・進化心理学など勉強しています。
日々思いついたことを書いていきますので、お暇でしたら読んでくださいね。

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