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読書メモ ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』(山形浩生訳、NTT出版)

 今もらう1万円と、10年後もらう1万円の現時点でのありがたみは違う。
10年後に1万円くれるんなら、今5千円、いや、千円でもいいからくれよと言いたくなるだろう。これは、つまり、現時点での1万円の価値が未来に先送りにされればされるほど目減りする、ということを意味する。行動経済学では、こんなことが色々議論されることになるんだが、ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』では、この原理が「双曲割引曲線」という価値の効用関数によってなされていることをかなり広範な現象に触れながら一貫して説明し尽くす。日常的に起こる人間の癖や習慣、アル中などの中毒現象にとどまらず、痛みという現象や、果ては社会規範、制度、文明崩壊の可能性(アダムとイブの話まで触れられている)までこの双曲割引の理論で一貫した説明をしてしまう!この本はとても広い射程をもった本なのだ。

 エインズリー以前の従来の効用理論などでは、今もらう1万円の価値は一定時間ごとに一定割合ずつ、いわば指数関数的に割り引かれると思われていた。指数関数的な効用理論では、今もらう1万円と1年後もらう1万円に価値の差があるのと同様に、50年後もらう1万円と51年後もらう1万円の価値も違うことになる。時間に比例して一定割合ごとに、価値が割り引かれるからだ。けど、これって、僕たちの常識的な感覚と照らし合わせて、あんまり腑に落ちない。50年後と51年後の1万円の価値の差なんてほとんどないように感じるし、その価値の差と、今現在の目先のものの価値の感じ方は根本的に違うように思われる。

 エインズリーたちの実験によれば、その直観の通り、人間は指数関数的な割引はおこなっていないという。人は目先に来たものの価値を、そのものの客観的・合理的な価値より大きく感じてしまうのだ。目前のものの価値だけ極端に高くなって、一方で時間的に遠くのものの価値があまり変わらない効用関数のあり方を、極端にしなった効用曲線=双曲割引曲線というのだという。これは、マッチング則を提唱したハーンスタインの実験で基礎づけられたらしい。実験では、人間のみならず、ハトやサルなどの動物もまたこの双曲的な効用をもっているという。これは進化の過程で身に付いたものだ。

 目先の価値が大きく見えるということは、誘惑に負けやすいということだ。人や動物は、この誘惑されやすい己の性向に対抗すべく、報酬のモジュールシステムを作り、「意志」というものが生まれた(意志は動物も持っているのだ!)。意志もまた、人間の「報酬」によって形づくられた長期的な利益のあり方という意味では、誘惑をもたらす短期的な利益=誘惑と存在論的に同じだ。エインズリーは、この長期的利益=意志と、短期的利益=誘惑が互いに協力関係や出し抜きあい、騙し合いなどの関係を結びながら、さながら人間の限定戦争やバクテリアの協力関係のように、己が主導権を取らんと抗争しているという。

 さて、とはいえ、この「意志」というやつは、一般的にイメージされるような意図的・意識的なものだけというわけではない。むしろ、無意識に、本人が必ずしも意図しないかたちで形成される「意志」の方が多いかもしれない。たとえば、日常的に無意識にしてしまっている「習慣」なんてのも「意志」の一種だとエインズリーは論じる。これは、利益の序列が自分の身体レベルで確定されてきた結果だという。社会集団の構成員に序列ができるように、利益にも序列ができるのだ。朝、ラジオである番組がかかったらベッドから起きて、職場では雑誌を読まず、タバコは食事の後にするなどといった行動は、別にそうしなかったときの影響をいちいち計算し直した結果ではない。以前に起きた競合の結果をそのまま受け入れただけだ。では本人になぜそうしたか聞いてみても、あれこれ「そうすべきだから」とか「なんか気持ち悪いから」とか、そんな程度の答えしか得られないだろう。しかし、このような利益の序列は、さながらイギリスのコモンローのごとく、誘惑と意志の異時点間の交渉の結果として形成されてきた「個人的ルール」なのである。そのリズムを壊すと「なんか気持ち悪い」のは、そのようなコモンローを無視することに相当するからなのだ。このように、意志=個人的ルールなるものは、当人のコントロール外でも起こる。いや、むしろ、本人が無意識的に、大雑把に積み重ねてきた行動が、自分の唯一無二の強固なルールになっていることのほうが多いかもしれない。僕が日曜日に特定の喫茶店に昼の三時きっかりに行かないと気持ち悪いのは、いつの間にか形成されてきたルールなのだろう。

 そして、誘惑ってやつもかなり狡猾だ。誘惑は意志と真っ向勝負するだけじゃなくて、ときには意志=ルールを逆手にとって、その裏をかく。ケーキやたばこを我慢するという意志=ルールの枠組みそのものを逆手にとって「今日は特別な日だし!」「これは例外!」などといって勝利を収めたりする。

 意志は、このような狡猾な誘惑に対抗するためには、上記のようなルール違反があいまいになるような規制をできなくなる。アル中が酒をやめようと思ったら、「1日3杯まではいいが4杯目は禁止」というようなあいまいなものではなく「一口も飲んではダメ」という厳格でわかりやすい基準をルールにして、言い逃れを防がねばなるまい。だが、このように厳格かつ明確なルールに拘りすぎると、今度はルール自体が硬直したものになりがちになる。

 それゆえ、実はルール=意志が融通がきかずに、逆に長期的利益を損なう場面がでてくる。たとえば、死刑直前の死刑囚が「禁煙してるからタバコをやめておく」という滑稽なことも起こりうる。

 また、意志は快楽そのものをもたらす欲求をつぶしてしまうこともある。あまりにも目的合理的な活動はその活動の楽しみをつぶしてしまう。例えば、合理的で効率的な旅や読書や学問やセックスは、かえってその快楽をそいでしまうのではないだろうか?つまり、意志は、ルールによって最大化されるべき当の目的であった長期的な快楽そのものを合理性によって殺してしまうというジレンマを抱えているのだ!

 このようにかなり精密な双曲割引のしくみを説明しながら、本の最後でエインズリーはカッとんだ話で論を締めくくる。実は、人類が発達させてきた性規範や道徳、マナー、芸術、学問、そして各種社会制度などの一部は、人が欲求のあいがたみをつぶさずに維持するべく、迂回的に快楽をもたらすように設計されているのだと言いだす!そしてそこから導かれるのは、合理的な制度というものが、いずれ文明崩壊の原因になるのではないかということであり、また、かつて、滅んできた文明はそのような合理性が最大化してしまったゆえに、快楽も幸福も真理さえも雲散霧消したゆえにそうなってしまったのではないか、と!

これはジャレド・ダイアモンド顔負けの文明論である。むしろ、双曲割引曲線による誘惑や迷い、後悔、苦悩こそが、快楽やその結果である「幸福」をもたらすのだ。「幸福」は迂回的に、廻り廻ってしかやってこない!直接に幸福に向かおうとすること、すなわち、幸福を哲学的に定義しようとする試みは、その本質において、幸福に到達できないことが運命づけられているのである!目的が手段となり、手段が目的に転ずる曼荼羅的構造を有する偶然性の思想=仏教や、ペテロが3回イエスを否認したのちに自らの罪=真理に迂回的に直面するキリスト教神学、そして幸福は遅れてやってくる『女生徒』で書きつけた太宰治らの思想が、この双曲割引理論を媒介にして、この僕にも迂回的に理解されてきたことが、この理論の得体の知れなさを如実に物語っていると言えよう。

双曲割引的な誘惑は人間に迷いや後悔をもたらす迷惑な存在である一方で、そうであるがゆえに人間は意志をもつようになっている。もし人間が誘惑を完全に克服したらどうなるだろう?人が指数関数的な合理性を完全にもつようになったら?

誘惑が無くなれば、意志もまた不要になり、人間は人間であることをやめるだろう。この本はそんな人間の生物としてのジレンマや限界、そして悲しみについて書かれているのだ。


 


 
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コタロー

Author:コタロー
こんにちは。
大島弓子さん、山岸凉子さんが好きな20代男性です。
昔は社会倫理学を専攻。
最近は、進化生物学・進化心理学など勉強しています。
日々思いついたことを書いていきますので、お暇でしたら読んでくださいね。

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