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“仏に逢うたら仏を殺せ”地下沢中也『預言者ピッピ』(1)(2)について

“仏に逢うたら 仏を殺せ”-臨済禅師『臨済録』―

完璧な科学は、もはや宗教と見分けがつかない。
もちろん完全な科学などというものはない。ここで言う「完璧な」というのは、われら神ならぬ不完全な人間の目から見て、完璧な(ようにみえる)科学、という意味だ。この領域に入ると、「願うこと」と「予測すること」は区別できなくなる。予測の計算から発生が証明された現象を、われわれが、誰かが、そうあるように願ったからそうなったのではないか、と勘違いするようになるのだ。これは、なにも高度な科学に限ったことではない。ぼくらは、よくこの混同をしてしまう。たとえば、地震などの災害。大地震のように人為の及ばないほど大規模な災害では、当然人間やら何やらの意志など介入する余地はない。自然側の何らかの原因があって、ただ起こるだけだ。そしてその結果、不運な人は偶然死んでしまうだろう。そこに意味はない。だが、人はそこに意志を見てしまうことがある。つまり、地震で死んだ人間を前に、「なぜ?」と問うてしまうのだ。「なぜ?」とということは、そこに何らかの存在の自由意志が介在していると無意識のうちに感じている、ということである。原因が意志と混同されてしまうのだ。人はこのごくごく素朴なレベルでも現実を不正確に解釈してしまうなら、ましてや、高度な予測シミュレーションでは願いと予測の区別ができなくなる。そして、一体、誰が願っているのか、誰が意志しているのか、それもわからなくなっていく。

『預言者ピッピ』には、不完全な人間にとって、限りなく完璧に見える科学、すなわち、未来の出来事を寸分たがわず予測できる人工知性(ヒューマノイド型スパコン)が登場する。ヒューマノイド型人工知能のピッピは、地震予知のための確率計算機として人間に創られたロボットだ。ピッピにもともと意志はない。もとは世界の現象を数値的に予測し、計算するだけのロボットだ。この漫画では、人工知能ピッピが、交通事故により命を落とした人間の友人であるタミオの人格を、自身の中に対話相手として取り込み自我をもつ。そして、科学研究所などの思惑で、難病など地震の予測以外の「予知」をさせられるようになる。彼はタミオの母親の病気を予知し、難病の原因と治療法を計算し、果てにはマグニチュード8.5のロサンゼルス大地震をほぼ誤差なしでぴたりと予言する。世界は彼の予言を単なる確率計算ではない、未来の「預言」として受け取るようになっていく。まるで宗教のように。奇跡を期待するように。ピッピは未来の「予言者」から、キリスト教的な「預言者」へと化していくのだ。

未来の予告は、現実そのものを捻じ曲げることがある。いや、現実そのものを変えてしまう、とも言えるだろうか。客観的な世界の観測をするにも、観測するための「道具」がいる。望遠鏡などの道具は、星雲などの解明で天文学を飛躍的に進歩させたが、それは、観測者の存在する現実そのものの根源的な変化をともなっていた。そして、生物の「脳」もまた道具である。ダニエル・デネットなどが理論化したように、脳は生物が死なないための、現実をシミュレーションするための道具として発達してきた。脳の発達は、人間の生きる環境そのものへの認識を変化させ、さらには環境そのものに働きかけて変えてしまうことを可能にした。

ピッピは、人類にとって「道具」のはずだった、はじめの段階では。コンピュータの発明自体が、人間の脳内で行われる情報処理能力の外部化だったとするなら、ピッピは人類すべての脳の結晶であり、最高の道具であると言える。だが、人類の脳であるピッピは、もはや人間の現実を変えずにはいられない。ピッピの予言は、現実そのものを捻じ曲げていく。

世界中の数十億人が見守るなかで、ピッピはその場に居合わせたジャーナリストの真田タカオに対して、彼は「今日から99日後に自殺」し、「それがあなたの役目 あなたが生まれてきた理由」である、と“預言”する。また、8年後、人類は地球規模の大海嘯を伴う謎の「ゲルダ現象」により滅亡する運命にある、とも言う。そして、滅亡を阻止するためには「生命の定義を数値化す」る進化が必然であり、タカオはそのための被験者として犠牲になる運命にあるのだと予言する。

真田タカオは、未来を寸分たがわず計算するピッピの預言をハナから信じていなかったので、自分への自殺の預言も真に受けてはいない。タカオの行く末に興味を寄せる大衆やテレビ番組の演出で、タカオは自殺預言の当日に巨大なジャンプ台の上に立ち、ピッピの預言が誤りであることを身をもって証明しようとする。全く自殺する意志も理由もない自分が、飛び降りるわけなんかない、と言いながら。

しかし、自殺預言の日が近づくにつれて周りの人間の態度がおかしくなっていく。まるでタカオが死ぬことが確定した事実であるかのように、いや、皆、タカオの死を願うようにすらなっていく。不確定な未来が、確定した現在であるかのようになっていく。
預言日当日に台に上ろうとするタカオを「アレはダメよタカオ アレはダメ」と引き留めるのは、言葉を話す猿として世界的に有名になったエリザベスだ。彼女は死にかけのホームレスを見て傍らに寄り添い、自身のいる生物学研究所に病気や貧困にあえぐホームレスを住まわせるなどする、心優しき猿だ。エリザベスは世間の空気に殺されそうなタカオのそばに寄り添いつづける。台の上で、タカオの手を握る。もちろんタカオは台の上にのっても、自殺する気はさらさらない。

だが突然、タカオの前に“何か”が現れる。ルネ・マグリッドの『ピレネーの城』のような見てくれの物体が、タカオとエリザベスの前に浮かんでいる。タカオはそれを見て、台から飛び降りる。落下中、タカオは、自身のものではない何者かの手によって扼殺されながら(一見自殺しているように見える)、落下し、絶命する。
エリザベスはとりみだし、錯乱しながら言う。
「何かいる…駄目!!逃げなさい タカオ!悪がいるわ!(It's Evil!)」

タカオは“何”に殺されたのか。エリザベスの言う「悪」とは一体何なのだろう。
重要なのは、ピッピはタカオが扼殺された数万分の一秒の瞬間を予測できなかったということである。そしてエリザベスが言うようにそれは「人間の世界にはありえない あってはいけないモノ」だ。予言をすり抜ける、存在してはならないものとしての「悪」。このいささかカトリック的とでもいうような悪のあり方は今後この話の中でどうなっていくのか。まだわからない。また、ピッピ自体には悪意はない。彼は単に人類やタカオの未来を計算して予言しただけだ。しかし、それが成就してしまった。このことは「真理」に向き合う人間のどうしようもなさが示されているともいえる。「わたしの口の中に 悪がいる」「言葉で説明しようとすればするほど どうしてもなにかが違っていく やっぱりわたし言葉はあまり好きじゃないわ」というエリザベスの台詞は、そのことを如実に物語ってはいまいか。

人は現実を自分の都合のいいように解釈する生き物である。脳神経科学などでは、視覚と情動を繋ぐ脳神経の経路が切断されてしまうと、自分の母親を理性的には母親だと認識できても、情動のわかないことから「母親じゃない」と勝手に解釈してしまうことがあるらしい。また、左脳と右脳が切れてしまい、自分の行動の理由づけに関してそれぞれの側が勝手に解釈してしまう、などの例もあるんだと。最近は、行動経済学などでも、自分が物語化しやすい現実を解釈する人間の行動原理などが注目されている。つまり人は、自分が信じたいものを信じるのである。それが、理性的にみて妥当な解釈でなくても、人は、自身の「信じたい」という願いを、その思いの一貫性を、無意識にまた集合意識的に優先させてしまう。ましてやピッピのような世界最強のスパコンの演算である。そこに宗教性が帯びないわけがない。エリザベスはタカオの死について「悪がフザケて遊んでるような 悪が遊んでるみたいにタカオにまとわりつい」ていると言う。タミオのコピーはそれを受けて「たしかに悪ふざけなんだ こいつはまったくフザケた意思でピッピの予言にあと乗りしてきたくせして あたかも最初からここにいるのが決まっていたかのようなフリをしてる まるでピッピの予言を自分が当てさせてやったとでもいいたげだ」。“悪”のワルふざけ。もし、現実がそして真理が、僕たちのような不完全で弱い人間たちの合理化によって、いや、“願い”や“意志”によって、意味づけされるようなものなら、“悪”はまさに悪ふざけしながら僕たちの世界をおちょくることができるだろう。“運命”というものを楯にして。さも当然、そこにすでにあったかのように。おそらく、タカオを殺したのは、真実にすがり執着しようとする人間の弱さ、そして現実や真理というものそのものが孕んでいる隙である。

本書2巻の「兆し」の冒頭には、ピッピを開発した科学者が臨済宗の禅僧を訪れて人類滅亡の預言について問答を交わすシーンがある。科学者はピッピの予言を聞いて、人はもう絶望するほかないのか、と尋ねる。禅僧はそれに対し、自身が若いころによく仏のような怪しげなものにあったことを語りながら科学者に『臨済録』の言葉を投げかける。「仏に逢うたら仏を殺せ 祖に逢うたら祖を殺せ 羅漢に逢うたら羅漢を殺せ 父母に逢ったら父母を殺せ 悟ったと思ったその瞬間 その悟りは壊さねばならん」。「人は弱さゆえに真を求め 弱さゆえに真を見まがう」「もしあなたの目に ピッピが全能であり それが正しいとしか映らないなら それは仏に逢うて惑わされてるのに同じ 目に見えるものが必ずしもそのようであるとは限らんのです」

この物語では、ピッピは人間から見て限りなく全知であるがゆえに“全能”であるように見える。一見、ピッピこそが神であり、救世主であるかのように思えるかもしれない。話の中に出てくる人間も一部を除けば、ほぼそう感じていた。
だが、この話ではピッピは明らかにアンチ-キリストである。全知全能のように存在しているがゆえに、より超越的な“悪のワルふざけ”“嘘つき 詐欺師”にたぶらかされるのだ。かれもまた、世界に対して無能な者のひとりである。

ここで真にキリスト的なのは、エリザベスである。彼女=キリストは世界に対して完全に無能である。自分が何であるかすら知らない。全知でもない。彼女は世界の人間たちに軽んじられる。しかし、彼女は悪や嘘だけは見抜く、結果、真実を見抜く。彼女は、真実を見抜き、常に弱き者に寄り添うだけだ。そして、われら不完全な弱き人間にとって、エリザベス的であること以外何ができようか。

“仏に逢うたら 仏を殺せ”

仏の幻影を殺しうるのは、ただただエリザベス的である者だけである。



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コタロー

Author:コタロー
こんにちは。
大島弓子さん、山岸凉子さんが好きな20代男性です。
昔は社会倫理学を専攻。
最近は、進化生物学・進化心理学など勉強しています。
日々思いついたことを書いていきますので、お暇でしたら読んでくださいね。

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